この文章は,『月刊ポスドク』第9号 (2018年8月発行) に寄稿したものです.編集・発行者の許可を得て,こちらに転載しました.
tsutatsuta. 2018. 実と刃と石. 月刊ポスドク 9:16.
実と刃と石
見慣れぬフルーツ
海外で見慣れないフルーツを見かけると、ついつい食べてみたくなる。初めて見るけれど、なぜだかフルーツであることだけはすぐにわかる食べ物が、スーパーや市場に山と積まれている。現地の人びとも頻繁に購入しており、きっと今が旬で、ひときわおいしいに違いない。すべすべした皮やトゲトゲした殻、一口サイズから両手に抱えるほどまで、地味だったり派手だったり。……ああ、私に食べられるのを待っている、さまざまなフルーツたち。
つるりと剥いて食べられるものや、あらかじめカットされているものだったら良いのだけれど、硬い外皮やしなやかな皮のなかに果肉が閉じこめられていた場合、素手と歯だけではどうにもならないことがほとんどだ。調査基地を拠点にしたフィールドワークであれば、料理のための包丁などもそろっているから問題ないけれど、学会や都市部での書類仕事のためにホテル住まいをしていると、そうしたフルーツにどうやって立ち向かうかという問題が生じる。
以前、ペンケースに入れていたカッターで皮を剥き、果肉を切ってみたことがあった。切る前にはカッターの刃をティッシュでよく拭いたのだけれど、なんだかどうしてもわびしさが漂い、カッターの刃もそのあと錆びてしまい、もやもやした気持ちだけがあとに残った。
折りたたみナイフ
そんなおり、知人の持っていた折りたたみナイフで梨の皮を剥く機会があった。だいたい私は、十徳ナイフのような多機能ナイフをどうも好きになれない。無機質な見た目、ステンレスの板であるかのようなナマクラな刃、ジャラジャラとした自己主張。いかにも十徳ナイフ然としたたたずまいが、私の気分を落ち着かなくさせる。
しかしその折りたたみナイフは違ったのだった。そのナイフは折りたたみナイフの機能しかなく、思いのほか温かい見た目をしており、切れ味よく、軽く、手にしっとりとなじんだ。刃を出して、切り、しまう。それだけ。なんてすばらしいのだろう。
翌週の週末には、私はアウトドアショップにおり、すでにその折りたたみナイフを購入していた。ステンレスの刃を砥石で研ぎ、スーツケースのなかに入れ、きたる海外出張に備えた。
砥石
そう、私は砥石が好きだ。博士課程にあったある冬の日、すこし早めの夕方前に帰宅していたけれど、ペダルの不具合のため途中から自転車に乗れなくなり、自転車を押しながら、長い距離を歩いて帰らざるをえなくなった。
この帰り道の途中、いつもは外観を見て通り過ぎるだけだった石材屋にふと目がとまった。ちょうどその頃、数年前から使っている包丁の切れ味が悪くなっており、砥石の購入を検討していた。店のなかに入ると、土間の商品棚に砥石がいくつか置いてあり、ひんやりして年季の入った天井を見上げてひとしきり感激したあとに、これもなにかの縁であろうと、1000番の砥石を買って帰ったのだった。
購入した砥石で研ぎ直した包丁はスカスカと切れるようになり、トマトは潰れずにきれいな断面を見せ、鶏肉の皮もすぱりとふたつに分かれるようになった。研がない刃物がいかにストレスフルなものであるかということをそのとき痛感し、以来、砥石は私の日常生活に手放せないものとなった。
活躍
さて、折りたたみナイフは期待以上の活躍を見せた。マレーシアでは大きな柑橘の硬い外皮を割り (果肉のほうはあまりおいしくなかったけれど)、ロシアでは小ぶりの桃の皮を剥き (これもそこまでおいしくはなかった)、ウガンダではさまざまな種類のマンゴーの果肉をそぎ落とした (これに関しては大満足であった)。今後もスーツケースの底に忍ばせておき、満を持して、まだ見ぬフルーツとの出会いに備えたい。
そうして愉快なフルーツの記憶とともに帰宅したあと、台所に立って、旅立ちの前に砥石で研いであった我が家の包丁で食材を切るとき、久々に感じるスカスカとした切れ味に安心し、ああ、家に帰ってきたのだなあ……とほっとするのであった。