この文章は,『月刊ポスドク』第8号 (2017年12月発行) に寄稿したものです.編集・発行者の許可を得て,こちらに転載しました.
tsutatsuta. 2017. おみやげと研究室. 月刊ポスドク 8: 10–11.
おみやげと研究室
ギフトのギフト
匿名の論文などというものがあり得ないように、研究室にあっては、匿名のおみやげというものもあり得ない。おおかたの研究室には「お茶部屋」や「セミナー室」と呼び慣わされるリビングルームのような部屋があり、それぞれに部屋や机を持っている研究室メンバーも、すべからくこの部屋に出入りし、わいわいとお昼を食べたり、セミナーに参加して皆で顔をつき合わせて喧々諤々したり、深夜に独り机に向かう淋しさをまぎらわしに来たりする。(この部屋においては、他愛もない世間話から、真剣なディスカッションまで、数時間を超えるおしゃべりが繰り広げられることも稀ではない)。
おみやげが置かれるのはほぼ確実にこの部屋である。ホワイトボードや黒板がある場合には、文字によって「◯◯さんからおみやげをいただきました」とか「学会で△△に行ってきました。どうぞ。鈴木」などと、明示的に、おみやげの出処が示されることが常である。黒板などがない場合にも、「このおみやげはどうしたの?」「◯◯さんからだって」「さすが、おいしいね」と、あたかも口頭伝承かなにかのように、おみやげにまつわる情報がメンバーの口から口へと伝えられていく。論文にあっても研究室のおみやげにあっても、コントリビューションを明確にしないことは、仁義にもとる重大な過失である。
おみやげにおいても、共著といったおもむきのものがある。複数の研究室メンバーが同じ学会などに参加するため出張に出て、それらのメンバーから共同で、ひとつのおみやげが買ってこられるような場合である。この点において、研究室へのおみやげにおけるギフトオーサーシップは、論文におけるそれと比較して、頻繁に行なわれるようである (あるいは、そうであると期待したい)。つまり、「研究室へのおみやげ買い忘れちゃったから、共同ということにしておいてくれない…? 半額くらい払うからさ」というような状況である。持って帰られるおみやげの総量が減るという不具合はあるものの (私自身がそうした卑しい考えを抱いておみやげを見ているというわけでは断じてなく、あくまで一般論である。えぇっ?……いやいや、ホントだってば)、もちろん、論文におけるギフトオーサーシップとは違い、倫理的な問題はない。
IF
研究室へのおみやげにおいては、考慮すべき重要な指標がある。IFと呼ばれるもので、「いつまでも 触れられない」のイニシャルを取ったものと言われている。IFの高いおみやげは、つまり、人気がないものということができる。思い出してみてほしい。リコリスの入った真っ黒なグミ (歯磨き粉のような味がする!)、エビの風味がついた油で揚げられたやたらとカロリーだけ高いスナック (酸化した新聞紙を噛んでいるような気分になってくる!)、パッケージによくわからない観光地のイラストが描かれたコーヒーの香りのしないコーヒー (もしこれをコーヒーと呼べるとしたらの話であるが!)。これらはみなIFの高いおみやげの代表格である。こうしたおみやげは、最初の味見のあと、いつまでも触れられないまま長期間放置され、年末の大掃除のときにこっそり捨てられたりするのである。
しかしもちろん、IFの高いおみやげは無価値ということではない。多くのメンバーは好まないものの、一部のメンバーのニッチな好みには強烈にヒットする場合もある。リコリスなどはもちろんその一例であるし、おみやげを買ってきた当人のみが好きで、結局ひとりで全部食べてしまうといったようなこともある。こうした例があるため、IFは完璧な指標ではない。研究室へのおみやげを評価するにあたり、h-index (放っておかれる指数) といったIF以外の指標も提案されているものの、いまだ広く定着するには至っていない。
スーベニア・オア・ペリッシュ
おみやげをサブミットするのは簡単であるし、リジェクトされることもまずあり得ない (論文もこうであったらなあ……)。面倒なのは、アクセプトされたおみやげを研究室メンバーでそれぞれ分配する際である。お菓子などの場合、メンバーの人数とおみやげの個数が一致するケースはごく稀であり、ほぼすべての場合において不平等が生じることになる。
概して、研究室へのおみやげの分配も、研究という営みと同様、各人の確固たる倫理観のうえに成り立っている。9人が在籍する研究室に持ってこられた8個入りのおみやげから、ひとりで3個も取ったりしてはいけないのである。あなた以外の誰もあなたが出した論文に興味をもたないといった例はしばしばであるが、あなたが買ってきたおみやげにはみんな興味津々である。大袋入りのチョコレートなどではなく、個包装されたすてきな和菓子や焼き菓子であれば、なおさらのこと。おみやげの自然な分配においては、各自の倫理感に加えて、ゆるやかな相互監視による自浄作用もはたらくようである。
もちろん、おみやげの分配にまつわる制度にも多様性がある。厳格なルールによって統治される研究室から (筆者は以前、まずはひとり1個のみ取ってよし、1週間経ったら1日ごとに、さらにひとり1個ずつ取っていって良い、といったルールの存在を耳にしたことがある)、そもそも人がいない研究室、果ては早い者勝ちの弱肉強食のジャングルまで、さまざまである。最近の報告では、研究分野によって、おみやげの分配にまつわる制度にも系統的な差異が生じる可能性が示唆されている (要出典)。
外の空気
モノとしてのおみやげをなんだかんだと論じるのは、結局のところ、無粋なのかもしれない。おみやげIFが高かろうが、量が少なかろうが、おみやげを持って帰ってきてくれる気持ちはまずなによりもありがたい。学会やら調査やら、親しい研究者が世界のさまざまな場所に赴き、おみやげという形で、その土地の空気や匂いを持ち帰ってきてくれる。我が身に馴染んだ研究室にあって、遠い土地でなされた研究の息遣いがおみやげとして吹き込んでくるのを感じると、私も研究がんばらなくっちゃ、という気持ちになるのである。