地球化学分析による授乳・離乳習慣復元 (レビュー)
- 安定同位体分析・微量元素分析を利用して授乳・離乳を調べる研究についてのレビューです.
- 人類学における授乳・離乳,原理,応用例,専門的な問題,将来の方向性について述べました.
- 過去のヒトについての研究が中心ですが,ヒト以外の霊長類や哺乳類,現代人を対象とした研究についても説明しています.
背景
授乳・離乳についての研究は,以下3つの点で,人類学において重要です.
- 授乳・離乳習慣は,子供だけでなく成人以降も,健康に影響を与える.
- 授乳中は排卵再開が抑制される傾向があるため,離乳年齢は出産間隔や集団の人口動態にかかわる.
- ほかの大型類人猿に比べてヒトの離乳年齢は早くなっており,ヒトの高い繁殖力や共同保育の進化に関連している.
生物地球化学的な原理
地球化学的な分析による授乳・離乳習慣の復元では,以下に示すような安定同位体や微量元素を利用します.
- 窒素同位体: 母乳タンパク質の摂取割合の指標になる.
- 炭素同位体: 離乳食の内容を推定するのに用いられる.海生哺乳類など脂肪分の多い母乳を分泌する種では,値が異なる.
- 酸素同位体: 母乳由来の水分の摂取割合の指標になる.ただし季節変動が大きいため,授乳・離乳習慣の復元においては多少扱いづらい.
- 硫黄同位体: 離乳食の内容,特に海産物や淡水魚の寄与を推定するのに用いられることがある.
- ストロンチウム: 母乳で低く,離乳食で高い.
- バリウム: 母乳を飲んでいるあいだによく吸収され,離乳後はあまり吸収されない.
応用例の紹介
いろいろな哺乳類種 (主にヒト,サル,家畜,海生哺乳類) で,いろいろな体組織 (骨,歯,毛,爪,牙,血液,糞,などなど) を使って,基礎・応用研究がなされています.過去ヒト集団の離乳年齢を復元する研究をはじめ,野生チンパンジーの離乳年齢の性差,家畜ウシの屠殺時期と離乳の関係,アシカとオットセイの成長戦略,などなどさまざまな研究があります.分析対象となる主な組織と方法論を以下に3つ示しました.
子供の骨: いろいろな年齢で亡くなった子供の骨を分析することで,集団のなかで横断的に授乳・離乳習慣を復元できます.骨のなかにパックされているコラーゲンを窒素・炭素同位体分析します.
歯の象牙質: 歯は胎児期から子供期に形成され,ほとんど置換しないため,成長後や死亡後も授乳・離乳の履歴を記録しています.したがって,歯の象牙質 (表からは見えない根本や内側の組織) を切片にして連続的に同位体分析していけば,1個体のなかでの授乳・離乳を縦断的に復元できます.象牙質のなかにパックされているコラーゲンを窒素・炭素同位体分析します.
歯のエナメル質: 口を開けて見える部分が歯のエナメル質です.エナメル質には「成長線」があり,薄い切片にすることで顕微鏡観察が可能です.エナメル質の結晶に含まれるストロンチウムやバリウム元素の濃度を測定し,「成長線」と対応させることで,1個体のなかでの授乳・離乳を縦断的に復元できます.
専門的な問題
元素の取り込み経路: 母乳や離乳食に含まれる元素がどのように取り込まれて「身になる」のかをきちんと理解していないと,データの解釈を誤る場合があります.たとえば窒素はほとんどがタンパク質に含まれているので,おかゆなどの炭水化物の寄与を過小評価してしまう場合があります.複数の元素を組み合わせることで,より多面的な議論が可能になります.
生理・環境・食性によるばらつき: 授乳や離乳のシグナルのほかに,同位体比や微量元素濃度を変動させる要因があります.たとえば,動物の乳を子供に与えることがありますが,窒素同位体比はあまり影響を受けず,ストロンチウム・バリウム濃度はそれなりに影響を受けると考えられます.
分解や汚染: 過去の試料を分析する場合,対象となる組織が分解されていたり汚染されていたりすると,おかしな結果が出ることがあります.多くは分析の過程や結果で,そうした悪影響を検出できます.
古人骨のパラドックス: 遺跡から出てくる子供の骨を使う場合,その個体は何らかの理由で亡くなってしまったためにその年齢で骨になった,ということをきちんと認識しておく必要があります.たとえば,授乳されていなかったため亡くなったのかもしれませんし,病気や変な食性を経験していたかもしれません.歯を使えば,生きながらえた成人から授乳・離乳習慣を復元できるので,この問題を解決できます.
年齢のあてはめ: 地球化学的なシグナルの変化を子供の年齢と関連させるには,分析した組織がいつ形成されたのかを把握しておく必要があります.骨の置換や歯のエナメル質成熟の遅れなどを補正することで,離乳年齢がより正確に推定できます.
将来の方向性
今後,以下3つの分野で研究例が増えていくのではないかと考えています.
- 人類生態学: 現代のヒト集団の調査でも子供の食べ物や離乳年齢が調べられています.母親が思い出した離乳年齢などは必ずしも正確でないことが報告されており,客観的な地球化学分析が利するところがあります.
- 霊長類学: 授乳・離乳は,個体の成長において重要なイベントです.ヒト以外の野生霊長類を研究する際,離乳年齢は行動観察によっても調べられますが,樹上にいて見えなかったり,夜間の観察が困難であったりします.
- 古人類学: 過去の化石人類についてデータが得られれば,人類の授乳・離乳行動の進化をより深く議論できます.近年の技術的な発展により,貴重な資料の破壊を最小限にとどめる方法が考案されつつあります.
分析技術のさらなる発展と,生体内での元素代謝の生理学的・栄養学的理解が進めば,授乳・離乳習慣についてより多くのことがわかるようになると期待しています.
論文情報
参考文献
英語で書かれていますが,最新のデータをもとに,推奨される授乳・離乳習慣を示しています.おすすめです.
雑記
私の専門分野を紹介するための良いレビューがなかったので,自分で書いてしまいました.時間はかかりましたが,査読者からのコメントも含め非常に勉強になりました.
文章を書いたのこそ研究室でしたが,構想を固めたのも,図をつくったのも,改訂をしたのも,だいたいは旅先でした.下の写真はそのうちのひとつの礼文島.この世のものとは思えないすばらしいところです.