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この文章は,NPO法人「FENICS」の2019年2月25日発行のメールマガジンに寄稿したものです.編集・発行者の許可を得て,こちらに転載しました.


それぞれの事情

私の場合、授乳・離乳や子育てを研究対象として扱っているものの、主な情報の取得源は論文や書籍ということになる。そうした文章には現実の多様性みたいなものが圧倒的に欠けているのではないかと常づね思っており、実際に自分たち夫婦が妊娠出産子育てをする経験を経て、この思いは確信に変わった。

論文や書籍には、妊娠期間は○±○日とか、つわりや乳腺炎がある、○○集団の離乳年齢は○歳である、といったことが淡々と書かれている。しかしその背後には、人によって異なる細かな違いがある。そうした多様性のようなものは、(良い悪いは別にして)、自然人類学における学術的な文章からはどうしても抜け落ちてしまう。

子供の誕生というライフイベントを経るにつれ、友人や知人の妊娠出産子育てに関する体験談を聞くことが増え、書かれた文章や物語を読むことも増えたけれど、見聞きすればするほど、本当にいろいろなケースがあるのだなあと驚く。つわり中に体重が7キロも減って入院生活を送った人、針で刺されるようだという乳腺炎、自宅のトイレでいきんだときにすぐに産まれた安産から、72時間にわたる分娩のあとに、癒着した胎盤を剥がされたときの悶絶する痛みまで。放っておけば数時間すやすや眠ってくれる赤ちゃんもいれば、常に抱っこしていないと泣き叫ぶ赤ちゃんもいる。

私たちの場合、順調だった妊娠期間とは様子ががらりと変わり、あれよというまに緊急帝王切開が決まり、乳汁分泌もなかなか開始されなかった出産後の2日間ほどは、私たち夫婦ふたりとも非常に心細く、この現状を否定されるような言葉を見聞きしていたら、きっと心に深い傷が残ったことと思う。

研究を通じて学んだ知識をひけらかすでもなく、自身の、強烈だが例数の乏しい経験にもとづいて人に意見や情報を押しつけるのでもなく、いろいろなケースがあってそれぞれの大変さや喜びがあるのだよね、というそれぞれの事情に寄り添うような態度でいられたら、と強く思ったのであった。

(つづく)


Illustration of placenta

胎盤のイラスト。出産した病院では胎盤を持ち帰ることができると聞き、ふたりでしばし考えた後に「持ち帰る」という選択肢に丸をつけた。家に持ち帰って十分に血抜きし、ごく一部だけ切り取って冷凍。退院後に解凍し、ひとくち分だけ炒めて食べてみた。こわごわ口に運び、ぎゅっと噛んでみると、なんとまあ、意外と肉の味がする。ブタ肉やトリ肉のような旨味があった。胎盤の本体はスポンジのような食感で、ちょこっとついていたへその緒の部分は弾力のある食感だった。想像していたレバーのような食感や味とはまるきり違っていたのだった (血抜きをしすぎて、いちど冷凍してしまったせいかもしれない)。悪くはなかったけれど、それでもやはり、なにかいけないものを食べているような後ろめたさがあり、こればかりは一度経験したらもういいかな、という気になった。


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