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この文章は,NPO法人「FENICS」の2019年9月25日発行のメールマガジンに寄稿したものです.編集・発行者の許可を得て,こちらに転載しました.


ライフイベントの報告

ある研究会でのこと、研究者仲間のFacebook ステータスが「既婚」に変更されたという通知を数ヶ月前に目にしていたことを思い出して、同じくその研究会に参加していた彼に「おめでとうございます」と話しかけた。話の流れで「実は私も子供が生まれまして…」と話をした。この会話を聞いていたひと世代上の別な参加者からは、「最近の若い人たちは、そういう近況報告はみんな SNS でするものなのかと思っていました」とコメントが入り、彼も私も「いやいやいや、むしろ直接話す以上に SNS では気を遣いますよ」と口を揃えて返したのだった。

私たちはどうしても、自分のことを無意識に他人と比較してしまうけれど、現代日本社会において、結婚や出産に関しては特に状況がシビアだ。結婚や出産は、当事者にとっては晴れがましく幸せな状況である (と世間的にみなされている) ため、そうした状況の当事者になりたいが現状なれていない人 (という言い方もだいぶ失礼な気もするけれど……) にとって、そうした報告を見ることは苦痛となり得る (と、私たちは他者の心をなかば勝手に想像する)。もちろんすべての人がそうであるわけではないし、こういう感覚自体がきっとすでに、現代日本社会に蔓延する窮屈な規範や価値観から大いに影響されているとは思うのだけれど、もし、結婚や出産の報告を見ることによって苦痛を感じてしまう知人がいるかもしれないのであれば、たとえほかの多くの人に伝える機会を逃すのであっても、報告はまあやめておこうか……とする感覚がある。そんな感覚が一部にあることを思って、彼も私も、SNS 上での結婚や出産報告には慎重だった。あるいは、いくら想像しても結局のところ想像だけではなにもわからない他者の気持ちを何重にも慮ることに疲弊して、「SNS 上でのライフイベント報告」という行為そのものから距離を取りたかったのかもしれない。

単に私が敏感になりすぎているのかもしれないけれど、こんなふうに、SNS でライフイベントを報告することには、単に情報を伝達するという意味あいがあるだけでなく、SNSを取り巻く社会的な文脈からメタな意味づけもなされる。関係の薄い知人にまで簡素なテキストだけが流れていく SNS では、そうした投稿にどのような意味が付与されどのような感情が抱かれるか、予想できないところがある。投稿する自分のほうも、初めは、リアクションがあると、みんな祝ってくれてありがとう! とうれしい気持ちを抱くけれど、だんだんと「いいね」が積み上がっていくにつれ、たしかな実体をもった自分たちの人生が、無造作なテキストや写真などのオンラインコンテンツとしてただむやみに消費されていくような気がしてしまい、どことなく虚しさを感じたりもするのだった。

こうした葛藤の背景には、他者の目を必要以上に気にしてしまう意識があるのだろうと思う。何を思おうと、何を思われようと、自分は自分、他人は他人、とみんなが自立していれば、報告する側も受け取る側も、苦痛を感じることはないのではないかしらん。しかし、結婚や出産には特に、社会からの強い圧力や価値観の強制が伴っているため、自他の比較がシビアになったり、他人の目が必要以上に気になってしまうのかもしれない。

現代に普及したSNSでのライフイベント報告に付与される (と一部の人びとが感じてしまう) メタな意味づけについて、ほかの人がどう思っているかや、ほかの国の状況がどうなっているかを知りたいなあと思っている。

(つづく)


Spring garden of Worcester College

とはいえ、知り合いの喜ばしいライフイベントの報告をSNSで見られることを、私はいつだってうれしく思う。写真は、研究会会場近辺のすてきな春の庭。


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