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江戸時代の子供観の変化と授乳・離乳習慣



背景

歴史学や考古学の成果によって、江戸時代の前半 (17世紀から18世紀にかけて) に、庶民の「子供観」に変化があったことが明らかにされています。社会や文化や経済が安定し成熟したことで、家督の相続をともなう家意識が庶民にも広まり、18世紀以降、子供の教育や成長により細やかな注意が向けられるようになりました。18世紀以降には、たくさんの育児書が広く庶民に向けて出版されるようになります。医者や儒学者などの権威者によって書かれたそうした育児書は、全般的に、子供に3年程度おっぱいをあげることを推奨しています。また、江戸時代には子供の埋葬方法にも変化が生じました。17世紀までは子供と成人のお墓には特に大きな違いがありませんでしたが、18世紀以降には子供を特定の墓域に埋葬する「子墓」や、子供だけに用いられる棺などが広く見られるようになっていきます。

こうした子供観の変化があったこと自体は、歴史学や考古学の成果によって明らかにできます。しかし、当時を生きていた江戸時代の子供たちが、そうした変化のもとで、実際にどのような人生を送っていたかを明らかにするには、古人骨を直接調べる必要があります。たとえば、子育てに対する関心が高まり、育児書が3年程度の授乳期間を推奨していた18世紀以降、子供たちの授乳・離乳経験は実際どうなっていたのでしょうか?

本研究では、江戸時代の子供観の変化の前後にあたる年代の遺跡から出土した子供の骨に含まれる安定同位体の存在比を調べ、当時の庶民の授乳・離乳習慣を復元し比較しました。重い窒素同位体の存在比は、授乳中の子供の体組織で高く、離乳によって成人と同様の値まで低下することがわかっています。遺跡から出土したさまざまな年齢の子供の骨に含まれる窒素同位体の存在比を調べることで、それらの子供たちが何歳くらいまで授乳されていたかがわかるのです。



対象・方法

子供観が変化する前の離乳習慣は、東京都の一橋高校遺跡 (17世紀後半) から出土した古人骨を分析して復元しました。一橋高校遺跡の成果はすでに論文化されています。この遺跡では、子供も成人もほとんどが木製の棺桶 (早桶) に埋葬されており、埋葬様式が子供で特に異なることはありませんでした。

子供観が変化し、子育てに対する関心が高まり、3年以上の授乳が推奨されるようになった18世紀以降の授乳習慣は、大阪府の堺環濠都市遺跡871地点から出土した古人骨を分析して復元しました。この遺跡には、子供が陶製の壺に埋葬されて100体以上まとまって出土する墓域があり、子供だけを特定の場所に埋葬する「子墓」があったことがわかっています。こうした埋葬様式は、子供観が変化した18世紀以降に特徴的なものです。

共同研究者に協力をいただき、歯がどの程度生えているかという基準から、それぞれの子供の死亡年齢を推定しました。骨からはコラーゲンを抽出し、質量分析計によって、含まれる窒素同位体の比率を調べました。



結果・考察

子供観が変化した後には、授乳期間が短くなっていたことがわかりました。子供観が変化する前の一橋高校遺跡では、もっとも確率の高い授乳期間 (離乳が終わる年齢) は3年1ヶ月 (95%信用区間は2年1ヶ月から4年1ヶ月) と推定されていました。一方、子供観が変化した後の堺環濠都市遺跡では、もっとも確率の高い授乳期間 (離乳が終わる年齢) は1年11ヶ月 (95%信用区間は1年5ヶ月から2年8ヶ月) と推定されました。子供観が変化し、庶民に向けて盛んに出版されるようになった育児書では、3年程度の授乳期間が推奨されています。しかし実際の授乳期間は、むしろ2年程度と短くなっていたのでした。

育児書は3年程度の授乳期間を推奨していたのに、実際の庶民の授乳期間は2年程度だったという齟齬については、18世紀以降に家意識が庶民にも浸透していったことが影響していた可能性があります。栄養状態があまりよくないと、授乳期間中の母親の排卵サイクルが停止するため、離乳を遅くするほど出産間隔が長くなります。江戸時代では小児死亡率が高く、生まれた子供が全員成人する保証はありませんでした。そうした状況で、嫡子に財産や家督を継がせようとすると、出産間隔を短くして、無事に生き残って成人する可能性のある子供をたくさん抱えておくことが、ひとつの有効な戦略になります。相続をともなう家意識が庶民にも普及したことで、そうした選択が意図的に行なわれるようになったのかもしれません。

また、育児書に書かれた授乳期間はあくまでも権威者からの推奨であって、実際の授乳・離乳習慣を必ずしも反映しないことには注意が必要です。江戸時代よりさらに昔の中世鎌倉の庶民のもっとも確率の高い授乳期間は3年10ヶ月 (96%信用区間は2年11ヶ月から4年5ヶ月) と推定されています。もしかしたら、江戸時代の権威者たちは古くから続く長い授乳期間を理想化し、家族観の変化によって短縮した授乳期間をもとに戻すために、3年程度の授乳期間を推奨していたのかもしれません。

とはいえ、この研究では、江戸時代の家族観の変化の前後の2つの古人骨集団を調べただけです。さらに別な地域や時代の集団からも授乳期間に関してのデータが集まれば、上述の説明をより詳細に検討できるようになることでしょう。



論文情報

Tsutaya T, Shimatani K, Yoneda M, Abe M, Nagaoka T. 2019. Societal perceptions and lived experience: infant feeding practices in premodern Japan. American Journal of Physical Anthropology 170: 484–495. DOI: 10.1002/ajpa.23939.



研究紹介

江戸時代の子育ては育児書の推奨に従っていたか?—遺跡から出土した骨の安定同位体分析でわかること— | academist Journal



雑記

堺環濠都市遺跡871地点があった場所は、現在は駐車場になり、横にはビルが建っています。写真は、そうしたビルの隙間からのぞいた遺跡の跡地 (?) (2018年9月撮影)

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